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映画にとって理論とはなにか

映画についての理論的な書物の効用が疑われることがある(特に今は難しい時代だ)。ゴダールは好んで強調する。未来のヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが文章を書いていたとき、彼らは映画について書いていたのではなく、理論をつくっていたのでもなく、それはすでに映画を作る手段であったというのである。しかしながらこの指摘は、理論とよばれるものについて、あまり深い理解を示しているとはいえない。なぜなら理論もまた、理論の対象に劣らず生成する何かなのである。多くの人々にとって、哲学は「生成する」ものではなく。出来合いの時空にすでに作られたものとして、前もって存在している。しかし哲学理論はその対象に劣らず、それ自体一つの実践なのである。それは対象と同じで、抽象的なものではない。それはもろもろの概念の実践であり、この実践が相互に干渉することになる別の様々な実践との関連において、この実践を判断しなければならない。映画の一理論は、映画「について」ではなく、映画が喚起する諸概念についての理論であり、これら諸概念はそれ自体別の実践に対応する別の概念とかかわり、概念の実践が一般に別の実践に対して何の特権ももたないのは、一つの対象が別の諸対象に対して特権をもたないのと同じなのである。数多くの実践の相互干渉の水準で事物は生まれ、もろもろの存在、イメージ、概念、あらゆる種類の出来事が生まれる。映画の理論は映画を対象とするのではなく、映画の諸概念を対象とするのであって、これらの概念は映画そのものに劣らず、実践的、実効的、あるいは実在的である。偉大な映画作家たちは偉大な画家、偉大な音楽家に似ている。彼らのしていることについて最もよく語るのは彼ら自身である。しかし彼らは語りながら、別のものになる。彼らは哲学者あるいは理論家になる。理論を欲しがらないホークスさえも、理論を軽蔑する振りをするときのゴダールでさえも。映画の概念は映画の中に与えられてはいない。しかしそれは映画の概念であって、映画についての理論ではない。したがって、真昼であれ真夜中であれ、もはや映画とは何かではなく、哲学とは何かと問わねばならないときが、いつもやってくる。映画それ自身はイメージと記号の新しい実践であり、哲学は概念的実践としてその理論を作らなければならない。なぜならどんな技術的あるいは応用的(精神分析、言語学)内省的な規定も、映画そのもののもろもろの概念を構成するのに十分とはいえないからである。


ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』(法政大学出版局、2006年、384~385頁より)
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by f_cinemaclub | 2012-01-29 13:30 | 映画


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