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詩作品 独島と竹島

干山島(一四一九~五二年)
三峯島(一四七〇~九四年)
可支島(一七七七~一八〇〇年)
石島(一八八一年以後)
独島(一九〇六年)

以上、朝鮮側呼称初出。

松島(一六一八年以後)
松島ないしリャンコ島(一八四〇年以後)
竹島(一九〇五年以後)

以上、日本側呼称初出。


李氏王朝、税賦を逃れての渡島を禁ずるため、鬱陵島(ウッルンド)への渡航を禁止(空島政策、一四一六年~一八八一年)
その間、米子の商人大谷・村川両家が幕府の渡海免許状を受けて、鬱陵島に渡航(一六一八年)
朝鮮側の空島政策のおかげで、一七世紀の約八〇年間だけ続いた。竹が多く生息することから当時この鬱陵島が「竹島」と呼ばれ、現在の竹島はそれとセットで「松島」と呼ばれていたが、この「松島」のためだけに出漁した記録はない。

一六九三年、大谷・村川両家と朝鮮漁民の安龍福(アン・リョンボク)らとの間に争闘事件勃発。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も独島=竹島も朝鮮領土であると主張して日本人を追い払い、九三年と九六年の二回にわたって追撃して日本に渡り、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受ける。

かくして問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、一六九六年にいたり江戸幕府は鬱陵島が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとる。
この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。だが、江戸幕府が鬱陵島と松島の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。事実問題として鬱陵島渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島=竹島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていた。

明治初年の海外渡航ブームの中で、再び、物産豊富な鬱陵島への渡航・開拓許可を政府に願い出る者が、一八七六~七八年の間に続出したが、明治政府はこれらを一切却下した。しかし改良された造船技術によって朝鮮人より一足先に船足をのばした日本人は、明治一〇年代頃から再び非合法に鬱陵島にわたりはじめた。

一八八一年鬱陵島捜討官の李奎遠(リ・ギュウォン)の報告によってこのことを知った朝鮮政府は、直ちに厳重抗議するとともに、従来の空島政策を一転させ、朝鮮本土から住民を移住させて(八三年)積極的な経営政策に乗り出した。日本政府はこの抗議に対して陳謝するとともに、一八八三年には鬱陵島在留日本人二五四名を全員引き揚げさせる措置をとる(日朝両国民の現場での関係はまださほど険悪なものではなかった。八三年の日本人ひきとりの際の両国官吏の間は、まだ「和気あいあい」たる交隣関係の姿であった。

一八八一年以降、詳細は不明にしても、朝鮮人民の独島=竹島への認識と出漁がある程度進んでいたことを全く否定することはできない。その実態を反映するものとして、一九〇〇年一〇月二五日付韓国政府勅令四一号第二条の「(鬱陵)郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵全島と竹島・石島を管轄とす」という文言があると考えうる。この法文中の「竹島」は鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、「石島」はいまの独島=竹島をさすと解するのが自然であろう。この史料は、従来あまり注目されてこなかったが、「一九〇五年以前に朝鮮政府が何ら独島=竹島に施政を行ったことがないから、島根県編入当時無主の状態にあった」とする日本側の見解に対する反証として重要である。

一九〇五年一月二八日、日本政府は独島を「竹島」と名づけ「本邦所属」とすることを閣議決定し、その指示に従って島根県知事が同年二月二二日付島根県告示四〇号をもって「自今本県所属隠岐島司の所管」と公示する形で、はじめて日本領土に編入した。逆にいえばそれまでは日本領土ではなかったのである。

現在の国際法慣行にてらして考えるとき、この一九〇五年という時点での日本編入が帝国主義的侵略行為であったかいなかは、最大の争点の一つであるが、韓国・朝鮮側が明白な朝鮮固有領土の侵略と規定しているのに対し、日本外務省は「竹島編入を侵略行為とするが如き主権国家への重大な非難を……韓国が全然事実に反する独断をもって行なうことは断然容認できない」と応答しているのだそうである。

いわばこっそり編入しておいて、気づかなかったのは相手が悪いとするのが、日本側の論理である。実際、朝鮮側がこの編入の事実を知ったのは、約一年後の一九〇六年三月に島根県第三部長・神西由太郎以下四四名の一行が、独島=竹島をへて鬱陵島にいたり、郡守・沈興沢(シム・フンテク)にそのことを告げたからである。沈氏は儒者らしく突然の無礼な使客にも丁寧に応対したが、驚いてただちに中央政府に「本郡所属独島について日本官人が、いま日本領地となったといってきた。照亮されんことを務望す」と注意を促す報告書を送った。一年前に比べて侵略は一段と進んでおり、すでに乙巳保護条約が強要され、外交権は完全に剥奪され、日本の設けた「韓国統監府」が機能しはじめており、実質上の植民地統治期に入った後であった。果たして、沈氏の職務上当然の警告も、中央政府に役立てられるべくもなかったのである。

この一九〇五年の日本編入の直接のきっかけになったのは隠岐の人・中井養三郎が一九〇四年九月に日本政府に提出した「りゃんこ島領土編入並に貸下願」であった。中井はいわば独島=竹島だけを目的に大規模・計画的に出漁したはじめての日本人だったのである。願書の標題で分かるようにその中井にして、独島=竹島を日本の固有領土であると思っていなかったばかりでなく、当初はむしろ朝鮮の領土であると認識して朝鮮政府に貸下願を出すつもりでいた。それが日本政府への領土編入願に変わったのは海軍水路部長・肝付兼行の示唆による。つまり、中井という一個人の行動を利用し、背後で操作したのは実は軍であった。「竹島は日本固有の領土」という通念が日本国民の間に定着したのは実は一九四五年以後のことなのである。

GHQは一九四六年一月二九日「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」SCAPIN六七七号で、独島=竹島を明示的に日本の行政権の範囲から除き、続いて同年六月二二日マッカーサー・ライン設定に関するSCAPIN 一〇三三号でも、独島=竹島への日本船舶の接近を禁止した。

ところが、一九五一年九月に調印され五二年四月二八日に発効したサンフランシスコ条約の第二条のa項の文言は「日本国は……済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利……を放棄する」というもので、あいまいな記述であった。ここで注意しておくべきことは、サ条約の成立過程で日本政府が限定的ながら交渉の機会を持ちえたのに対し、一方の当事者である韓国・朝鮮は直接発言する機会を一切持たなかったということである。

一九四八年六月三〇日、独島=竹島に出演中の韓国漁夫三〇名が米軍の爆撃演習にあい死者一六名重軽傷六名の犠牲を出す。発足後の韓国政府の抗議に対し米第五空軍は、演習場として指定していなかったことを認め陳謝した。こうした事実をふまえて一九四八年八月の成立後、韓国政府はさっそく「慶尚北道鬱陵郡南面道洞一番地」として行政を及ぼす措置をとる。また、それに先立って四七年から学術調査団を派遣するなどしていた。

かくして一九五二年一月一八日、韓国政府は、日本の主権回復をみこしてこれに対応すべく、「海洋主権宣言」を発し、独島周辺をふくむいわゆる「李ライン」を設定した。

この間、一九五二年七月二六日、日米合同委員会が、日米行政協定二条に基づき、独島を米軍の演習区域に指定するということがあった。これを日本側は「アメリカが日本領と認めたことだ」と宣伝したが、韓国政府の抗議に応じて五三年二月二七日、米空軍は独島を演習区域から除外したと公表し日本側の主張は意味をなさなくなった。

アメリカにたよれなくなると日本側は、ついに「実力行使」に出た。海上保安庁の巡視船がしきりに独島に接近し韓国漁民を「尋問」したりして、銃撃戦すら演じられた。特に五四年の五月には、巡視船の保護のもとに隠岐の漁民が集団上陸して採取活動を行なった。こうした事実に接して韓国国会は「独島を日本人の侵攻から保全する決議」を行ない、韓国政府は五四年八月に灯台を建設するとともに警備隊を常駐させる体制を固めて今日にいたっている。





※梶村秀樹「独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』一八二号、一九七八年九月)⇒『梶村秀樹著作集 第一巻 朝鮮史と日本人』(明石書店、一九九二年)よりの大部分引用からなる。
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# by f_cinemaclub | 2016-01-25 18:56 | 情熱


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