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カテゴリ:情熱( 12 )

詩作品 独島と竹島

干山島(一四一九~五二年)
三峯島(一四七〇~九四年)
可支島(一七七七~一八〇〇年)
石島(一八八一年以後)
独島(一九〇六年)

以上、朝鮮側呼称初出。

松島(一六一八年以後)
松島ないしリャンコ島(一八四〇年以後)
竹島(一九〇五年以後)

以上、日本側呼称初出。


李氏王朝、税賦を逃れての渡島を禁ずるため、鬱陵島(ウッルンド)への渡航を禁止(空島政策、一四一六年~一八八一年)
その間、米子の商人大谷・村川両家が幕府の渡海免許状を受けて、鬱陵島に渡航(一六一八年)
朝鮮側の空島政策のおかげで、一七世紀の約八〇年間だけ続いた。竹が多く生息することから当時この鬱陵島が「竹島」と呼ばれ、現在の竹島はそれとセットで「松島」と呼ばれていたが、この「松島」のためだけに出漁した記録はない。

一六九三年、大谷・村川両家と朝鮮漁民の安龍福(アン・リョンボク)らとの間に争闘事件勃発。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も独島=竹島も朝鮮領土であると主張して日本人を追い払い、九三年と九六年の二回にわたって追撃して日本に渡り、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受ける。

かくして問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、一六九六年にいたり江戸幕府は鬱陵島が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとる。
この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。だが、江戸幕府が鬱陵島と松島の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。事実問題として鬱陵島渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島=竹島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていた。

明治初年の海外渡航ブームの中で、再び、物産豊富な鬱陵島への渡航・開拓許可を政府に願い出る者が、一八七六~七八年の間に続出したが、明治政府はこれらを一切却下した。しかし改良された造船技術によって朝鮮人より一足先に船足をのばした日本人は、明治一〇年代頃から再び非合法に鬱陵島にわたりはじめた。

一八八一年鬱陵島捜討官の李奎遠(リ・ギュウォン)の報告によってこのことを知った朝鮮政府は、直ちに厳重抗議するとともに、従来の空島政策を一転させ、朝鮮本土から住民を移住させて(八三年)積極的な経営政策に乗り出した。日本政府はこの抗議に対して陳謝するとともに、一八八三年には鬱陵島在留日本人二五四名を全員引き揚げさせる措置をとる(日朝両国民の現場での関係はまださほど険悪なものではなかった。八三年の日本人ひきとりの際の両国官吏の間は、まだ「和気あいあい」たる交隣関係の姿であった。

一八八一年以降、詳細は不明にしても、朝鮮人民の独島=竹島への認識と出漁がある程度進んでいたことを全く否定することはできない。その実態を反映するものとして、一九〇〇年一〇月二五日付韓国政府勅令四一号第二条の「(鬱陵)郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵全島と竹島・石島を管轄とす」という文言があると考えうる。この法文中の「竹島」は鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、「石島」はいまの独島=竹島をさすと解するのが自然であろう。この史料は、従来あまり注目されてこなかったが、「一九〇五年以前に朝鮮政府が何ら独島=竹島に施政を行ったことがないから、島根県編入当時無主の状態にあった」とする日本側の見解に対する反証として重要である。

一九〇五年一月二八日、日本政府は独島を「竹島」と名づけ「本邦所属」とすることを閣議決定し、その指示に従って島根県知事が同年二月二二日付島根県告示四〇号をもって「自今本県所属隠岐島司の所管」と公示する形で、はじめて日本領土に編入した。逆にいえばそれまでは日本領土ではなかったのである。

現在の国際法慣行にてらして考えるとき、この一九〇五年という時点での日本編入が帝国主義的侵略行為であったかいなかは、最大の争点の一つであるが、韓国・朝鮮側が明白な朝鮮固有領土の侵略と規定しているのに対し、日本外務省は「竹島編入を侵略行為とするが如き主権国家への重大な非難を……韓国が全然事実に反する独断をもって行なうことは断然容認できない」と応答しているのだそうである。

いわばこっそり編入しておいて、気づかなかったのは相手が悪いとするのが、日本側の論理である。実際、朝鮮側がこの編入の事実を知ったのは、約一年後の一九〇六年三月に島根県第三部長・神西由太郎以下四四名の一行が、独島=竹島をへて鬱陵島にいたり、郡守・沈興沢(シム・フンテク)にそのことを告げたからである。沈氏は儒者らしく突然の無礼な使客にも丁寧に応対したが、驚いてただちに中央政府に「本郡所属独島について日本官人が、いま日本領地となったといってきた。照亮されんことを務望す」と注意を促す報告書を送った。一年前に比べて侵略は一段と進んでおり、すでに乙巳保護条約が強要され、外交権は完全に剥奪され、日本の設けた「韓国統監府」が機能しはじめており、実質上の植民地統治期に入った後であった。果たして、沈氏の職務上当然の警告も、中央政府に役立てられるべくもなかったのである。

この一九〇五年の日本編入の直接のきっかけになったのは隠岐の人・中井養三郎が一九〇四年九月に日本政府に提出した「りゃんこ島領土編入並に貸下願」であった。中井はいわば独島=竹島だけを目的に大規模・計画的に出漁したはじめての日本人だったのである。願書の標題で分かるようにその中井にして、独島=竹島を日本の固有領土であると思っていなかったばかりでなく、当初はむしろ朝鮮の領土であると認識して朝鮮政府に貸下願を出すつもりでいた。それが日本政府への領土編入願に変わったのは海軍水路部長・肝付兼行の示唆による。つまり、中井という一個人の行動を利用し、背後で操作したのは実は軍であった。「竹島は日本固有の領土」という通念が日本国民の間に定着したのは実は一九四五年以後のことなのである。

GHQは一九四六年一月二九日「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」SCAPIN六七七号で、独島=竹島を明示的に日本の行政権の範囲から除き、続いて同年六月二二日マッカーサー・ライン設定に関するSCAPIN 一〇三三号でも、独島=竹島への日本船舶の接近を禁止した。

ところが、一九五一年九月に調印され五二年四月二八日に発効したサンフランシスコ条約の第二条のa項の文言は「日本国は……済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利……を放棄する」というもので、あいまいな記述であった。ここで注意しておくべきことは、サ条約の成立過程で日本政府が限定的ながら交渉の機会を持ちえたのに対し、一方の当事者である韓国・朝鮮は直接発言する機会を一切持たなかったということである。

一九四八年六月三〇日、独島=竹島に出演中の韓国漁夫三〇名が米軍の爆撃演習にあい死者一六名重軽傷六名の犠牲を出す。発足後の韓国政府の抗議に対し米第五空軍は、演習場として指定していなかったことを認め陳謝した。こうした事実をふまえて一九四八年八月の成立後、韓国政府はさっそく「慶尚北道鬱陵郡南面道洞一番地」として行政を及ぼす措置をとる。また、それに先立って四七年から学術調査団を派遣するなどしていた。

かくして一九五二年一月一八日、韓国政府は、日本の主権回復をみこしてこれに対応すべく、「海洋主権宣言」を発し、独島周辺をふくむいわゆる「李ライン」を設定した。

この間、一九五二年七月二六日、日米合同委員会が、日米行政協定二条に基づき、独島を米軍の演習区域に指定するということがあった。これを日本側は「アメリカが日本領と認めたことだ」と宣伝したが、韓国政府の抗議に応じて五三年二月二七日、米空軍は独島を演習区域から除外したと公表し日本側の主張は意味をなさなくなった。

アメリカにたよれなくなると日本側は、ついに「実力行使」に出た。海上保安庁の巡視船がしきりに独島に接近し韓国漁民を「尋問」したりして、銃撃戦すら演じられた。特に五四年の五月には、巡視船の保護のもとに隠岐の漁民が集団上陸して採取活動を行なった。こうした事実に接して韓国国会は「独島を日本人の侵攻から保全する決議」を行ない、韓国政府は五四年八月に灯台を建設するとともに警備隊を常駐させる体制を固めて今日にいたっている。





※梶村秀樹「独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』一八二号、一九七八年九月)⇒『梶村秀樹著作集 第一巻 朝鮮史と日本人』(明石書店、一九九二年)よりの大部分引用からなる。
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by f_cinemaclub | 2016-01-25 18:56 | 情熱

吉田省吾


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by f_cinemaclub | 2013-01-20 16:57 | 情熱

みっちん

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by f_cinemaclub | 2013-01-20 14:28 | 情熱

『ダダッ子貫ちゃん』

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詳しくはWEBで→京都精華大学情報館
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by f_cinemaclub | 2012-10-30 19:54 | 情熱

『PACE』6号 特集「洛北出版という天使」、販売してます。

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目次

まえがき&特集にあたって


高橋慎一「ジャンプ」
竹村正人「恋愛について」


特集 「洛北出版という天使」

書評と寸言

アルフォンソ・リンギス『汝の敵を愛せ』書評 by 河津聖恵 「わたしの中から今その声を聴く」

梅木達郎『支配なき公共性』→寸言

アルフォンソ・リンギス『何も共有しない者たちの共同体』→寸言

浅野俊哉『スピノザ』→寸言

ジョック・ヤング『排除型社会』→寸言

マサオミヨシ×吉本光宏『抵抗の場へ』書評 by 篠原雅武

エリザベース・ルディネスコ『いまなぜ精神分析なのか』→寸言

マウリツィオ・ラッツァラート『出来事のポリティクス』書評→竹村正人 「未来の記憶を受けとる力」(藤井貞和と湾岸戦争詩論争)

石田美紀『密やかな教育』書評 by 石曽根正勝

上垣豊編『市場化する大学と教養教育の危機』書評 by 橋口昌治

廣瀬純『シネキャピタル』→寸言

柘植あづみ 他『妊娠』書評 by 吉岡太朗

フランコ・ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE』書評 by 竹村正人 「みんな働こう、でもほんの少しだけ!」

中倉智徳『タルド』書評 by 竹村正人 「労働は余暇のためにある」

原口剛 他『釜ヶ崎のススメ』→広告

あとがき


洛北出版ホームページ

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裏面だよ。
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三色あるよ。


●『PACE』6号 「洛北出版という天使」販売

価格:100円(一冊からご注文いただけます)
送料:3冊まで80円、7冊まで160円
注文:unco.cinema.club(@)gmail.com
080-6136-5334 竹村まで


郵便振替口座:
振り込み用紙での振込や郵便貯金からの送金は以下。
●口座記号番号 00970-9-164309 (タケムラマサト)

他行等からの振り込みは、以下です。
●店名(店番)〇九九(ゼロキユウキユウ)店(099)
※店名を選ぶ際に「ゼ」を選択してください。
預金種目 当座
口座番号 0164309



以上
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by f_cinemaclub | 2012-10-30 19:54 | 情熱

第三信





















詩人かつ映画好きということは、布団で「く」の字に体を曲げてくよくよしている素敵な弱虫であることをこの世で担当する人間だということだ、


安川奈緒


































安川奈緒×佐藤雄一「往復書簡」(『kader0d』 vol.1、2007年、148頁)より
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by f_cinemaclub | 2012-09-03 19:48 | 情熱

らも。











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by f_cinemaclub | 2012-05-27 09:55 | 情熱

雨と子犬



撮影:宮川一夫
1981年作品
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by f_cinemaclub | 2012-04-04 18:37 | 情熱

ふや町映画タウン

映画を観るなら京都へ留学せよ。 廣瀬純

 
映画を観るなら京都へ留学せよ。
京都「ふや町映画タウン」への緊急招待
廣瀬純

京都に来て3年が過ぎた。京都に来てやめたことがひとつある。それは映画のビデオを撮りためることだ。なぜか。京都には世界最強のレンタルビデオ店「ふや町映画タウン」があるからだ。

「ふや町映画タウン」はいつでもやっている。「いつでも」というのは言い過ぎではない。元旦も含めて一年365日、午後1時から夜中の12時まで「ふや町映画タウン」はつねに開いている。ツタヤだってそうじゃないかと言う人もいるかも知れない。たしかに。しかし、「ふや町映画タウン」は、大森さんがたった一人でやっている。それでもなお、年中無休なのだ。大森さんの日々の生活を少しでもいいから想像して欲しい。彼は映画とともに生きている、あるいはむしろ、映画を生きているのだ。

アルバイトでも雇えばいいじゃないか。そう言う人もいるかも知れない。それはできない相談だ、大森さんはそう答えるだろう。なぜか。なによりもまず、「ふや町映画タウン」へ足繁く通うお客さんの数が圧倒的に少ないからだ。ぼくがここでみなさんを「ふや町映画タウン」へ緊急招待している理由もそこにある。大森さんはよくこう言う。「京都の主要大学の1年生から4年生まで、各学年ごとに一人ずつお客さんになってくれる人がいれば、それで十分なのに。」大森さんによれば、一般の学生はおろか、近畿の名門諸大学で映画を専門に学んでいる大学院生ですら、ゼミで発表が当たってしまった作品を借りて返したら、その後、二度と来なくなることが大半だそうだ。そんな大学院生しか育てられない大学教員は自らの怠慢を徹底的に恥じるべきだろう。

「ふや町映画タウン」はアルバイトを雇わない。その理由は他にもある。大森さんは、その収入のすべてを新たなビデオの購入に充ててしまう。「ふや町映画タウン」が日本はおろか世界でも無比の圧倒的なビデオ収蔵量を誇るのはこれが理由だ。一度でもいいから「ふや町映画タウン」のホームページに掲載されたビデオ・リストを見てみて欲しい。大森さんは、とても清潔でありながら、いつも同じ服装だ。大森さんは冬の寒さも重ね着で乗り切る。大森さんは自分の食費すら最低限に切りつめている。心あるお客さんたちが彼にお弁当をもっていってあげているのだ。そして大森さんはひたすらビデオを買い入れ続ける。「ふや町映画タウン」の店内に堆く積み上げられた膨大なビデオを見よ。それは彼の「生」そのものなのだ。

「ふや町映画タウン」がアルバイトを雇わない理由はまだ他にもある。経営状態が芳しくないのなら、店番はアルバイトに任せて、自分はどこかよそに働きに出たらいいじゃないか。大森さんにそう進言する者もいるかもしれない。これに対する大森さんの答えははっきりしている。そんなことはできない。「ふや町映画タウン」の存在理由は、その膨大な収蔵リストをひたすら増やし続けることにこそ存しているのであり、それは自分にしかできない仕事なのだ。これが大森さんの答えだ。

「ふや町映画タウン」のビデオ・リストは日々増え続けている。それは他のレンタルビデオ店のように売れ筋の新作を何本も購入するからではない。「ふや町映画タウン」が従わないもの、それは資本のロジックだ。大森さんは、資本のロジックを完全に無視して、「働かない」ことが最初からわかっているビデオを、つまり剰余価値を生産しないことが最初からわかっているビデオを、次から次へと買い入れていく。大森さんの「生」の力動は、資本のドライヴに突き動かされたものではまったくない。純然たるシネフィル的欲動だけが、大森さんの「生」を、あるいは「ふや町映画タウン」をまるごと貫いているのだ。

「ふや町映画タウン」のビデオ・リストは日々増え続けている。「ふや町映画タウン」とは、世界の映画的記憶が、資本家からすればもはや「クソ」でしかないビデオが、日々蓄積され続けている唯一無比の場のことである。ホームページに掲載されたリストは、実のところ、そのほんの一部に過ぎない。大森さんは、映画を学びにフランスに留学したぼくに対して、次のようにすら言う。「映画を観にフランスまでわざわざ出かけることなんかなかったのに。」もっともだ。「ふや町映画タウン」の収蔵作品リストを前にしてフランスへの留学を後悔したのは、ぼくだけではないだろう。「東京に映画を観に行こうと言うのなら、夏休みでもなんでも利用して、京都に映画を観に来ることがあってもいいじゃないか。」大森さんはそう言ってもいる。

ぼくは、蓮実重彦の直接の弟子でもなんでもないが、蓮実の著作によってとてつもなく強力に誘われ映画を観ることになった者の一人ではある。もう15 年以上も前にぼくが感じた映画へのあの圧倒的な磁力を、ぼくに再び思い出させたのは「ふや町映画タウン」であり、大森さんである。蓮実の著作を読み返すことによってすら感じ得なくなっていた、あの義務感にも似た「映画を観なくちゃ何事も始まらない」という圧倒的な感覚を、ぼくは大森さんとの出会いによって初めて思い出した。大森さんが蓮実のまねごとを言っているとか、そういう次元の話ではまったくない。映画を生きる、あるいはむしろ、ただひたすら映画だけを生きる大森さんの「生」の圧倒的な存在感が、つまり大森さんの「映画=生」が、蓮実のどんな著作にも勝る強度をもって、ぼくを触発し続けている。あの便利なレンタルビデオ屋が京都から消えては困る。そんな打算的な思いだけで、この文章を書いているわけではまったくない。なによりもまず、大森さんの「映画=生」によるとてつもなく強力な触発によって、ぼくはこの文章を書かずにはいられないのだ。

資本のロジックにとことんまで逆らう「ふや町映画タウン」は、多かれ少なかれ市場原理に毒されたどんな公立図書館・ミュージアムにもまして、真の「共=コモン」の場となっている。「ふや町映画タウン」は、まさに「コミュニズム」の場なのだ。だからこそ、「愛」を必要としている。「コミュニズム」は、カネに立脚していない以上、「愛」だけをその糧とする生き物なのだ。この文章を読んでくれているみなさん一人一人の「愛」を「ふや町映画タウン」は必要としている。しかも緊急に。みなさんが多かれ少なかれ映画を愛しているのであれば、それぞれのもてる度合に応じた量でまったくかまわない、どうかその「愛」を「ふや町映画タウン」に注ぎ込んで欲しい。いま、少なくとも日本において、みなさんの映画に対する「愛」を誰よりも必要としているのは「ふや町映画タウン」をおいて他にない。近畿に住む者は直ちに、近畿以外の地域に住む者はこの夏休みに、「ふや町映画タウン」に駆けつけて欲しい。

ふや町映画タウンHP http://dejan.dyndns.tv/f_eigatown/
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by f_cinemaclub | 2012-02-06 15:37 | 情熱

糸井貫二年表

1920
12.2 生まれる。
1945
8.15 自爆兵として敗戦を迎える/鹿児島・伊作峠山中
  →薩摩半島吹上浜から上陸する連合軍を迎撃するため、爆弾を装着して戦車を爆破する特攻兵として訓練を受けていた。
1946
11.1-11.3 第1回国民体育大会に京都代表の体操選手として参加/京都
1947
4. 古河鉱業大峰炭鉱で坑内労働に従事/福岡・田川
1948
11.21 大分県県民体育大会に体操(鉄棒車輪)で出場、2位入賞/大分
1949
11. 古河鉱業を退社、上京し芝浦冷蔵庫に入社
1951
2.27-3.18 第3回読売アンデパンダン展に作品『たまご』を初出品/東京
5. 糸井貫二個展、フォルム画廊/東京・銀座
  →初の個展。変形額の絵や発光塗料を塗った月の絵、妻子の写真に基づく線画など。
1952
10. 芝浦冷蔵庫退社、両親のいる仙台に移り再婚
  →仲人は飯田岳楼。父の会社である仙台製線工業所を手伝う。
1953
5.11-5.20 第17回河北美術展に参加 藤崎/仙台
1954
3.1 『遊』創刊/仙台
   →飯田岳楼の編集・発行による連句と俳石の月刊誌。「俳石」とは道端や河原で拾った石に題名をつける飯田が考案した遊びで、
糸井貫二はこれ以前にも俳石に参加して藤崎(百貨店)で展示を行なっており、また創刊号よりその審査員として名を記されているが、
実際には審査に参加していない。
8.13 仙台から東京・大森に転居
1955
6.27 2回目の離婚、5月から大田区山王に住む
1956
10. 天理教修養科第184期生終了/奈良
1957
7.22-7.27 イトイカンジ個展 求竜堂画廊/東京・銀座
  →油彩『黒のドレスの婦人』『チューリップ』、コラージュ、折紙、ドングリの盆栽『武蔵野』、版画『運命』『白亀』『星月夜』を貼り
和歌を書いた色紙、ボロ靴に造花を生けた作品を出品。俳石、「小鳥の春」三部作の版画『忍苦』『国境の雲』も展示か。自室にあったカーテンを
スカートにしてはいて行く、最初のパフォーマンス的行為。来場者に飯田岳楼発行の『遊』誌を配布。普門暁、靉嘔ほか、『遊』関係者を含む多数の
観客が来廊、作品もよく売れた。
12.24-12.28 糸井貫二個展 村松画廊/東京・銀座
  →アクション・ペインティングの大作、手型・足型をつけた絵画を発表。このとき篠原有司男と出会い、読売アンデパンダン展出品を勧められる。
1958
1.25 『遊』表紙に版画『原子雲』、本文に俳石版画『夕浪千鳥』掲載/仙台
  →『原子雲』は第41冊(58年1月25日)から第60冊(59年8月25日)まで毎回刷り色を変えて連続掲載。
2.4-2.10 いといかんじ個展 櫟画廊/東京・銀座
  →アクション・ペインティングの大作を出品。『休息』『参禅』『禅に生きる』『宇宙にふれる』ほか小品2点。最大の『宇宙にふれる』は
縦1.8m、横7.2m。針生一郎、篠原有司男、黒木不具人、今井俊満が来廊。
2.22-3.3 加賀見政之個展に来廊 日比谷画廊/東京
   →糸井貫二が来廊し対面、両者の交遊が始まる。のち加賀見が大森の糸井を訪ねる。糸井は「イトイカンジ美術研究所」の看板を掲げていた。
3.12-3.27 第10回読売アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
7.2-7.14 第11回日本アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
1959
2.18-3.1 第12回日本アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
2.28-3.15 第11回読売アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
6. 昌平高校グループに参加/東京
8.7-8.8 イトイ父子コラージュ展 東京電力サービスセンター/東京・目黒
  →糸井義郎のクレパス画と貼り絵、それに基づく糸井貫二のテープ状色紙による貼り絵。
9. 糸井貫二個展 大森画荘/東京
    →同年8月の東電サービスセンターにおける父子コラージュ展と同様の内容。
9.25 『遊』表紙に版画『金魚』、本文に俳石版画『天平仏』掲載/仙台
  →『金魚』は第61冊(59年9月25日)から第80冊(61年4月25日)まで毎回刷り色を変えて連続掲載。
11. 糸井貫二個展 大森画荘/東京
  →オブジェを使った絵画、漢詩、息子の絵を出品。来客に茶の湯を点じる。
12? <オールジャパン>(のちの<ネオ・ダダ>)に誘われるが断る。
1960
3.1-3.16 第12回読売アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
  →『涅槃達陀』『障子』『えだ』『阿字観』『行動だ』『間』
3.18? <ネオ・ダダ>結成の会合に立ち会う。 村松画廊/東京・銀座
4. 東松照明によって撮影される。 銀座画廊、市ヶ谷ほか/東京
6. 大森を引き払い大分県中津市に移る
  →中津は父方の郷里で、父・辰三郎の姉の家で長男義朗とともに3年暮らす。
6. 東松照明によって撮影された写真を含む『檻』が『カメラ毎日』6月号に発表される
8.5-8.9 父と子の童画ハリ絵展 中津市商工会議所3階ホール/大分
  →糸井貫二が中津時代に3回行なった展覧会の最初のもの。前年8月の父子コラージュ展の出品作に近作を加えた展示。童話作家の中西吟平が詩を添えた。
9.17-9.24 イトイカンジ個展 中津市商工会議所3階ホール/大分
  →中津での糸井貫二による2回目の展覧会。詩と版画を展示。
10.27-10.30 糸井貫二個展 中津市商工会議所3階ホール/大分
  →中津での3回目の展覧会。「“もう一つの顔”ダダ展」「ビート造形芸術」「出た!ビートニク」、オブジェ写真に基づく銅版画『もうひとつの顔』出品。
11.16 鈴木大拙の本を5冊購入
12.11 ジォルジュ・ユニエ『ダダの冒険』(美術出版社)購入/大分・中津
12.15 裸体含む4ポーズを撮影 アリカ写真館/大分・中津
1961
3.2-3.16 第13回読売アンデパンダン展に出品(『ダダッ子貫ちゃん』) 東京都美術館/東京
5. ダダについてのメモ/大分・中津
  →「自分の心理上に何ら変ったことはなかったが/ただこのダダが自分にくっついてまわって…」で始まる。
9. 『DaDa1961』発行/大分・中津
  →「遊+みのる+ダダ禅」発行とあるが、実際は糸井貫二による。みのる(<アンビート>の田代稔)の文章を掲載。『遊』は飯田岳楼が発行する俳石誌。
1962
1.  レイヨグラム制作/大分・中津
  →のちアルバム「光の版画」にまとめられる。
3.2-3.16 第14回読売アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
  →『自家発電』『トランク』『ももひき』(全品が出品拒否される)。
4.1-4.2 中島由夫個展に中津から突然訪れ、中島感涙。 東京電力サービスステーション/東京・目黒
5.8 大分・中津から千葉・市川の加賀見政之宅に移る。
8.15 敗戦記念晩餐会(芸術マイナス芸術〔敗戦を記念して〕)を見学 国立公民館/東京
10.6-10.10 篠原有司男個展を訪問 村松画廊/東京・銀座
10.23-10.24 ジョン・ケージとD.テュードアのイヴェント(Sogetsu Contemporary Series/19)草月会館ホール/東京・赤坂
  →24日に小野洋子が出演、テュードアによるジョージ・ブレクト『Incidental Music』の演奏で豆をいって床にまく。
観客席にいた糸井貫二が豆を持って帰ろうとするところをテュードアが呼び止めて、糸井の掌の上の豆の写真を撮る。
11. 鈴木大拙の禅書を読む/大分・中津
11.13? ジョン・ケージ演奏会を聞きに行く。 南画廊/東京・日本橋
12.2 <アンビート>のパフォーマンスに参加 四条河原、京都学芸大学校庭、京都市美術館、円山公園/京都
  →京都・大阪3日間のパフォーマンスツアーの初日。河原では四条大橋から多くの観衆が見るなか、メンバー各人がパフォーマンスや演奏。
糸井貫二は山高帽にミニスカートで欄干に立ち、加賀見に帽子を投げる。京都学芸大では糸井は全裸で校庭の松の木の頂上まで登り、松の若葉を食べて周囲を見わたす。
12.3? <アンビート>のパフォーマンス 大阪駅交番前/大阪
  →糸井貫二と田代稔が格闘、のち田代が糸井の靴を舐める。
12.4 <アンビート>のパフォーマンス 土佐堀川可動堰(現・鏡橋)か/大阪・中之島
  →身体に紐を巻きつけるなど異様な服装でパフォーマンス、新聞に写真入で掲載。中之島の可動橋では、糸井は加賀見が持ってきた少女用の黒いミニスカートと山高帽子に
着替えてコンクリートの欄干に立ち(パンツをはいていないので、下から見ると糸井好みのチラリズム)、山高帽をブーメランのように飛ばして加賀見がそれを受け止めた。
「九州から応援参加したというイトイカンさん(42)が端のランカンですっ裸になってさか立ちをはじめたので天満署の警官二人が「公然ワイセツの疑いで任意同行を求める!」
とイキリたってせっかくの芸術もオジャン。」(「東京の若い絵描きたちの週末パーティ」『世界裸か美画報』1960年8月号)
1963
3.2-3.16 第15回読売アンデパンダン展に出品 東京都美術館/東京
 『ダダカンの鞄』『43才になった一匹狼』。最後の読売アンデパンダン展。最も多くのパフォーマンスが行われる。
 <アンビート>の中島由夫と田代稔、糸井貫二が会場内および美術館入口で2日に「Damact」を行ない、館員の通報により警官出動で全員連行される(チラシの予告では「Damact」は3月10日、16日にも予定されていた。
4. 糸井貫二コラージュ展 日立ファミリーセンター/仙台
  →『アサヒカメラ』などのグラビア写真を使ったコラージュ。初日、センター主より煽情的との理由で作品の半分が撤去される。
6.22 超前衛集団展に参加 美術家会館6階ホール/東京・銀座
  →スキムミルク箱に細工をした「のぞき艶写真』を観客に進呈。
8.15 『赤い風船あるいは牝狼の夜』(<犯罪者同盟>の機関紙『犯罪者の赤い風船』特別号)に写真掲載。
1964
4.  市川から仙台に移る
7.18 第一回全日本アンデパンダン展に出品 横浜市民ギャラリー/横浜
  →『ポスター』『画帳』
8.30-9.5 日本超芸術見本市に作品送付 愛知県文化会館美術館、平和公園ほか/名古屋
9.29-1011 '64仙台アンデパンダン展に参加 三越百貨店/仙台
     『ヘルメット』(エロ写真をコラージュしたバイクのヘルメット)とインスタレーション『ゼロの男』を出品、作品の中で自らが立つ。また全裸になって外をはい回る。
     糸井のサングラス姿に魅せられた東北大ブントの上條順次郎(のち<ゼロ次元>)と鈴木光一、鈴木征一がパフォーマンスに参加。機動隊が出動、逮捕される。
     規制の多さに嫌気がさした糸井は、会期途中で上京して銀座を走る。
10.4 銀座通りを走る/東京
  →東京オリンピックの聖火ランナーに刺激を受けて行なう。服部時計店前より、顔を白包帯で多い、赤いフンドシを聖火になぞらえて掲げ、京橋方面へ走行中、故意にフンドシを外して全裸になる。
     時計店の前に戻って来たところで警官に逮捕され「東京オリンピック関係事犯第1号」とされる。
10.7 糸井貫二、精神病院に強制入院/東京・練馬
  →65年9月30日まで。「狂気の神聖さに圧倒され」ることになる。入院中、アルバム「光の版画」に日記・文章を加筆。
1965
9.1  精神病院退院/東京・練馬
11.1-11.6 20世紀博物覧会尻蔵元儀式物博を見に行く。 内科画廊/東京・新橋
1966
5.1 全国狂気見本市('66ヨヨアンデパンダン前衛芸術家亜苦庶ん大会)に参加 メーデー会場(ワシントンハイツ跡特設会場)/東京・代々木
8.28 現代美術の祭典(堺アンデパンダン展)に参加 金岡公園、金岡公園体育館/堺
     作品名『ダダの経験』
9. 『ゲゲ』3号発行
  →あさいますお追悼特集に執筆。糸井は「堕堕観」(鈴木大拙の文章の剽窃)を掲載。
1967
3. 『黒赤金玉袋』発行/東京 →に執筆。
 9. 「カラスまたは芋虫の踊り」 新宿駅東口「フーテン広場」/東京
  →透明ビニールと黒い綿布による、一方からだけ裸体が見える衣装を使う。2日間留置場に入れられる。
11. 西公園アート・フェスティバルに参加 西公園/仙台
     仙台アンデパンダン展で宮城輝夫らモダニズム系作家が主流だったことに不満を持った石川舜らが企画し、昭和生まれの作家に限定してより前衛的な作品を集めようとしたもの。
     飛び入り参加の糸井は、角帽をかぶり半分だけ透明なガウン状の服(貫頭衣)を着て、加藤好弘からもらったペニスのオブジェを丸い洗剤の缶に立てる(のち石川が作品として掘ったゴミ捨て用の穴の底に移される)。
     別の日には会場周辺の樹木にトイレット・ペーパーを巻きつける。
12.1 故由比忠之進追悼国民儀に参加 椿近代画廊前、新宿駅西口安田生命裏特設会場ほか/東京
     糸井は後頭部十字剃り残しのヘア・スタイルで行進に参加。ヨシダ・ヨシエと糸井が警察で事情聴取を受ける。
1968
6?-6.10 触感覚映像大会 コニシリビング/仙台
  →会場に毎日通い、さいとうよしあきの作品である白布の上でパフォーマンスを行なう。人造ペニスを額につけ、横たわって女性の脚形をした風船の股間に顔を突っ込む。
1969
1.1-1.2 さいとうよしあき企画のパフォーマンス発表会 フジヤ画廊/仙台
     糸井貫二は2日間ともパフォーマンス。洗剤の缶を開け、風呂敷を出し、全裸になって開脚三点倒立。ブリーフからソーセージを出してペニスをふり回すような踊り。プラスチックの容器から水を出し小便をするふり。
     でんぐり返しをして口に含んでいた卵を転がす。
6.15 学生デモに続いて歩く/仙台
  →鍋の兜をかぶって全裸に半透明の衣装を着る。
7.16 拘留中の末永蒼生らに激励の手紙を送る
10. 「ハップ広場宣言」 仙台市庁舎前噴水広場/仙台
  →ガス・コンロで湯を沸かしコーヒーを飲む。「ハップ広場宣言」は、さいとうよしあきによる命名。
1970
1.14 「ドント祭全裸性火廻り」 大崎八幡宮/仙台
  →正月飾り・古神札を燃やして無病息災・家内安全を祈る小正月の行事「松焚祭(まつたきまつり)」で、全裸聖火ランナーを再現。警察に連衡されるがすぐ釈放される。
3.8 さいとうよしあき、商店街のアーケードに上る/仙台・東一番町
  →糸井貫二に告知する。
4.27 全裸で走る 万博お祭り広場/大阪
     →大分・中津から仙台に帰る途中、新聞で「太陽の塔」の目玉を占拠した男の記事を見て途中下車、お祭り広場を15メートルほど疾走したあと警察官に取り押さえられる。
 6.7 『いなばの白うさぎ』の撮影 セバスチャン/東京・新宿
     糸井貫二ほか出演。
10.11 MAD・MAP 仙台市内各地/仙台
     MAD・MAP(Mutual Art Damage of Multiple Actionist Project)」は、東一番町・名掛町・国分町・東北大学医学部講堂・西公園・文化センター・路面電車など、各所で同時多発のパフォーマンスを行なうイベント。
     糸井貫二は東北大に行ったあと、東一番町のアーケードで赤い「男根型」の衣装を着て走り、のち脱いで全裸になる。
12.17 <ゼロ次元>儀式映画、『いなばの白うさぎ』上映会 俳優座劇場/東京・六本木
     客演=糸井貫二
1971
8. 「こんばんは落合恵子です」(文化放送)に芸術的ファン・レターを送付
1972
2. 三菱重工反戦株主登録/仙台
3. 仙台から京都に移る
  →由布院から宇治に転院した母の看護のため。以後79年5月まで京都に住む。



★引用・参考資料★
 黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(grambooks,2010)
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by f_cinemaclub | 2011-12-05 16:24 | 情熱


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