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待つということ

『極北の怪異』〔ロバート・フラハーティ、1922〕は映画作品の中でも最も美しいものである。我々が必要としていたのは、運命についてではなく、時間の次元そのものについての我々の尺度に合った悲劇だった。なるほど、過去五十年にわたって、映画作家の努力は、時間が一度に我々を閉じ込めるこの現在というものの境界を壊すことに向けられてきた。しかし、その第一の目標は、瞬間というものに対して、他の芸術が与えることを拒否している重みを付与することだった。待つことの悲愴感は、他の場合には至るところで卑俗な手段と化しているが、映画においては、神秘的なやり方で、事物の理解そのものの中に我々を投げ入れる。なぜなら、ここでは時間の持続を引きのばしたり、縮めたりするためのいかなる作為も可能ではないからであり、映画作家があまりにしばしば不可避と考えたあらゆる技法――例えば、「並行モンタージュ」の技法など――も、早いうちから彼にとっては裏目の結果を招いた。しかし、『極北の怪異』は、そうしたごまかしを我々に押しつけることはない。例を一つだけあげておこう。主人公のエスキモーが、浜辺で寝ているアザラシの一群を捕える機会を窺って、画面の隅にしゃがみ込んでいるくだりである。このショットの美しさはどこから来るのか。それはひとえに、カメラが我々に示す視点が、ドラマの当事者のそれでも、また人間の眼のそれですらもない、ということからくるのである。これがもし後者の場合であれば、一つの要素が他のすべての要素を排除して、その注意を独占してしまったことだろう。待つということを、何らかのやり方で、我々の参与を求めることなしに描写した小説家を、一人でもあげてみてほしい。ここでは行動の悲愴感以上に、時間の神秘そのものが我々の不安を形作っているのである。




エリック・ロメール「絵画の空しさ」(「カイエ・デュ・シネマ」誌、第3号、1951年6月)⇒『美の味わい』63頁より
# by f_cinemaclub | 2011-12-05 16:56 | 映画


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